キオクガタヨリ

記憶


今朝、東京地方は朝から雷雨だった。こんなに雷に見舞われるのも随分久しぶり。
で、「雷」をキーワードに自分の記憶からいろいろな事を引き出してくる。
それが曲になったり日記のネタになったり、って大体そう。昨日一昨日は別として最近の長めの日記なんてほとんどそれ。今日あった事・見た事のほんの些細なひとつから自分の「記憶」に絡めて一本書いているだけ。「よく毎日書くことがありますね」などと言われるが、ハッキリ言ってそんなにある訳無いじゃないか。ただ誰と決めた訳でもないけど「日記は毎日書く」って約束だから。「書く事が無い」でやめる訳にはいかないという自分のルール。
でも「ノスタルジー趣味」は無いけど、「思い出す」ってのは結構いいもんですよ。実に「記憶」は財産だなぁ、と思う。

まぁ人それぞれだとは思うけど誰かの話を聞くとき「どこどこへ行った」「誰々に会った」「何々を喰った」って話を聞いても面白くないんですよ、俺は。「で、どう思ったの?」って話しじゃん、聞きたいのは。さらに「なんでそう思うの?」って所からやっとその話に興味が持てる訳じゃないのかなぁ〜?少なくとも俺はそう。

昔ながらの「カギをかけて自分の部屋に」って日記なら「日記を書く・つける」って事だけど、ブログの場合はもう「日記を作る」だよな。もちろん「ねつ造」までする必要は無いけど、誰にも見せることの無い自分の為の記録とは明らかに性質が異なる。
で、「書く・つける」と「作る」では何が一番違ってくるかというと、要するに自分の財産となる「記憶」を増やしていくか、消費するかという事ではないか。という事を考えたらちょっと焦る。「人の受け売り」じゃなくて、何かを「創作し続ける」為には「知ること」「気づくこと」をもっともっと増やしていかなくては、と。その上で考えることで初めて自分の署名を入れた「作品」になりうるのではなかろうか。
多分、子どもの頃から「考える」「作る」は好きだったんだと思う、というか「好きにさせられた」のか。小さい頃に母親とよく遊んでいた事のひとつに「おはなしを作る」というのがあって、少し大きくなってからカセットテープに吹き込まれた「俺のおはなし」をいくつか聞いた事がある。もちろん読んでもらった本や話してもらった事、遊びに行った場所なんかをベースにした「小さな世界」から作られた物だけど、まぎれもなく「オリジナルのおはなし」だ。その世界が少し広がっただけで、今やっていることも小さい頃にやっていた「おはなしを作る」と変わらないと思う。そして世界を広げているのは「知ること」「気づくこと」で得た「記憶」とそれを結びつける「考える力」なんだと思う。
そうやって考えると、何かを「作る」というのは誰にでも出来るとても簡単な事ではないか。それも「自分が考えたものを作る」ということは「人のマネをする」よりもむしろ自然で簡単な事ではないかと思えてくる。
もちろん何も無い完全な「無」の状態から作る事は不可能だと思う。「ひらめき」や「インスピレーション」と言ったところで所詮自分の記憶から引っ張り出してきた物のはずだ。
自分の記憶のライブラリをもっともっと増やして、それを自由自在にサンプリングして構築していけばいくらでも「俺のおはなし」や「俺のうた」はそれこそ「ネタが尽きることなく」誰にでも作れるんじゃないか。
ヒップホップだね〜