まだ引っ張るのだ

ウクライナ猫


昨日の話し「人それぞれ」の続きというか、補足というか。
「なんでそういう風に考えるようになったか」みたいな事なんだけど。
少なくとも、ネット上のブログに書かれた日記などについて「この人、本当は何が言いたいのだろう」等と好意的に考えて見てくれるケースというのは、とても少ないのではないだろうか。
お金を払って購入する書籍とも違い「ありがたみ」もさほど無い。ササッと読み飛ばされてしまうのがオチだろう。
もしくは本人を目の前にしていないのを良い事に、匿名での無責任な中傷の対象にしたり。
毎日楽しみに見ている人だって「この人は何が言いたいのだろう」とまでは中々いかないのではないか。せいぜい読んだ時に「自分にとって意味があるかどうか」という受け身な読み方。自分には無関係な話だと思えばそこまでで、受け止めてすらもらえない。
だとすれば、それを逆手に取るような意味合いで、読んだ人が「自分に向けられたメッセージ」と捉えられる書き方というのが有効でないか。「メッセージ」なんて少々大袈裟な感じもするけど、それの代表例は「占い」だと思う。
冷静に読んでみると「こんなの大抵の人が当てはまるんじゃないか」って事が書いてあったりするけど、受け身な読み方をすると、それぞれが自分に照らし合わせて「当たってる」って思ったりする。
良いとか悪いは別にして、どちらにせよそういった場合に「わかってもらえるんじゃないか」という甘えがあってはいけないのだ。「本当は何が言いたいのだろう」って思って読んでくれる人なんていないんだから。
「自分が楽しかった話」ってのも限定された友人やストーカー的なファンにとっては面白いかもしれないけど、それ以外の人にとってはどうだかねぇ?
「でした」「ました」の日記なんて特にそう。「あぁそう」でお終い。
だから、その為にも「自分が思っていることを正確に伝える術」ってのは必要なのだ。
これは日記やブログに限らず、「不特定多数の人に足を止めてもらう」って野外演奏家にもつながる話しだと思う。
というか「客商売」全般に言える話か。