コメントさん

bousisensei2007-11-23


さて、「広島焼き」を喰いに行ったハナシを書いた(2007-11-16 - うさぎのえさ)に「こばこさん」がコメントを付けてくれてるんだけど、長らくソノママなのだ。
決して「放置」している訳ではないのだよ。
ただ、読めば読むほど「ん〜?」となってしまうのだね。
で、ウチの人は「文章が仕事の人」なんで、ちょっと相談というか見てもらって、二人で「ん〜?」
「言いたいこと」の「本筋」はわかるのだ。
「母の味」というものと「それ以外」の違いという点もわかる。
ただ、この文章の「落とし所」がわからない。
つまり「この文章を書いた真意」というのがわからないのだ。
ただ、単に俺の書いている事を否定しているのか?そうではないよな。「わたしはこう思います」「こういう考え方もあります」という事か?
スルスルッと「ななめ読み」みたいな読み方をすれば、そんなに気になるような事でもないのかも知れないけど、よく読むと・・・なんと言うか「俺に伝えたい事」がボヤケてる気がするんだな。
というわけで、コメントに対する返事が延び延びになってしまってるんだけど、ここで書いてしまおう。
あくまでもコメントを「俺が解釈した受け取り方」での返事ね。

こばこさんの言ってる事は「そうだな」とも思うし「違うな」とも思う。
実際、俺も「味覚の基本」は「母の作った味」だし、料理に対する「こだわり」に関して確実に両親のDNAを受け継いでいると思う。
それでも妄信的に「母の味が一番美味しい」とは思わない、というか「思わないようにしよう」としている。
それはどういう事かと言うと、たとえば俺は今家でウチの人にゴハンを作って「美味しい」と言ってもらえるんだけど、それが「恋人の作った料理だから美味しい」と思われているなら心外だから。
本来、料理は「誰が作ったか」で評価する物では無いのだ。
百歩譲って「誰々が作った『から』美味しい」というのであればまだ良い。あくまで味わった上で「ブランド」が加味されての「美味しい」とも言える。
でも「誰々が作った『なら』美味しい」というのは「妄信」でしかない。もしくは単なる「贔屓」だ。
たぶん、俺がライブに来るお客さんで「常連」を名乗ったり、やたらと「身内ノリ」になったりするのがキライなのは、それと同じ感覚だと思う。
俺の母親は結構料理が上手だったと思う。
だったら、なおさら「比較するステージ」は高い所にあって良いのではないか。
レストランなんかで外食して「さすがだな」と思うものもあれば「ガッカリした」ってのもあるとして、その基準値に「家庭の味」はあるんだと思う。
で、その中の「さすがだな」と思ったものを取り入れて「俺の家庭の味」にするものだと思う。
妄信的に「母の味が一番」と思う事無く「何が一番か」という事を自分で考える為に、両親は俺が小さい頃から、いろいろな物を食べさせていたんだと思う。だとすれば、それに対する返答は「自分で一番美味しいものを作る」という事かもしれない。子どもの頃両親からいろんな音楽を聴かせてもらったのもそういう事ではないだろうか。
いつまでも「母の味」が「不動の一番」ではいけないような気がするのだ。「思わないようにしている」とはそういう事でもある。
だから、必ずしも「母の味」をそのまま受け継いだものを俺が作り続けて「家庭の味」にする事を、母は望んではいないと思うし、おそらく母自身も「母の母の味」をそうやって「もっと美味しいもの」に変えて来たんだと思う。
事実、いまだに「母の味」は進化している気がする。
俺が「懐かしい」と思える味とは変わっている場合もある。でも、それはそれで良いと思っている。
ただ、唯一例外があるとしたら「懐かしの母の味」には
「そんなに美味しくないもの」
というのも含まれるという点。「けっして美味しくは無いんだけど、時々無性に食べたくなる」みたいなヤツ。
コレに関しては・・・難しいねぇ。
俺の母は「ハンバーグ」だけは下手だった。あれは「ハンバーグ」ではなくて「デカイ肉だんご」だ。
母は「ハンバーグが嫌いだ」ともよく言っていったから、ちゃんとしたヤツを食べた事が無いんだろう。40年近く前に普通の家庭料理に「アンチョビ」などの食材を取り入れていた母だから、そういう理由でもないと納得できないハナシなのだ。
あの「ハンバーグ」だけは勘弁だなぁ。
でも、そういった料理も含めて「母の作る料理が一番」というのであれば、それはそれで「わかる」話しなのだ。
ようするに、料理を「味覚」で判断するか「郷愁」で判断するか。
「こばこさん」のコメントにはその辺りが、いまひとつハッキリしていない気がするのだ。
つまり、相対的な意味での「美味しさ」の話しなのか?そうでないのか。「こばこさん」のお母さんが作った料理を食べた事が無い人には「わからない」話しなのか?一般的に言う「家庭の味」の位置づけとしてだけでとらえて良いものか。
フィギュアスケートにも「技術点」と「芸術点」があるように、ひとつの物事に対して何種類かの評価の仕方があるとしても、どちらかの点数がどちらかに加算される事が無いのと同じで「同次元では語れない事」というのがあるのではないか。
「ひとつの物事に対して」にも「同次元で語れない事」があるとしたら、なおさら「母の味とレストランの味は別物」とした上で「両者を比較対象にする」という点に「ん〜?」となったのかもしれない。
もちろん「こばこさん」がお母さんの料理が大好きだ、という事は十分に伝わってますよ。

ただ、やっぱり俺は「誰が作ったか」で料理を評価しない。
この日食べた「広島焼き」だって、店主が広島出身で本格的に修行したから「美味い」と思った訳じゃなくて、「美味い」と思って聞いたらそうだったというだけ。
母が俺に対して、どれだけ一生懸命作ってくれた「ハンバーグ」だって、感謝はするけど「不味い」って思って良いんじゃないか?
むしろ「作り手」の方がその辺の覚悟は出来てるような気がする。
「駄目なら駄目って言ってくれ」みたいな。
そこで作った人が「俺は○○なんだけど」って言うのはカッコ悪い。
なんでもそうだけど「肩書き」とか「署名」に頼ってる人は「その地位に行く事」を目標にした人だからね。
もう、その人の名前が世間に出た時点で「終わってる人」って事なんじゃないの?