つ、ついに・・・

bousisensei2007-12-04


みなさんも「一度ぐらいは」と思いながら、なかなかチャンスに恵まれない事ってないですか?
もしくは「是が非でも」という程の事でもないので「また今度でいいや」と、さほど積極的にならず、ずっと先送りになったままの事。
「行ってみたい所」とか「観たい映画」とか、そういうのありますよね?
お金と時間があれば、いつでも出来る程度の「夢」みたいなモノって、お金と時間に余裕があってもホントやらないもんだよなぁ。
で、俺もそういうのたくさんあるんすけど、その中のひとつを昨夜偶然実現してしまいました!
それは「大巨獣ガッパ」の映画を見る事だったんですけどね、深夜のテレビでやるってんで、それはもう「お〜!」てなモンですよ。
俺が生まれる前年の1967年のゴジラガメラなんかがブームの時に、日活が制作した唯一の「怪獣映画」として有名な「ガッパ」
もちろん、DVD化もされてるんですけど、一番最初に書いたような理由でいまだに見た事なかったんすね。
で、見たワケですよ。
作られた時代の事を考えると、なんとも言えないけれど、噂に違わぬ「クズ映画」
よくこんなもん作ったなぁ〜
なにかを「ライバル視」する場合。たとえ「かなわない」としても、せめて「迫る」「おびやかす」ぐらいのレベルには持って行かないとイカンのじゃないか?
こんな映画作って恥ずかしくないのかね?
たしかに「作られた時代」って書いたように、俺は「今の感覚での評価」だけど。
と、いうのは今の映画とか漫画って、どんな脇役・端役にも細かいキャラクター設定が作り込まれていて、全員が「エピソードを持ってる」じゃん。
それこそ「スクリーンに今映っている事以外にも、様々な物語が進行している」みたいな。
もちろん、昔もそういった物はあったろうし、今でも違う物はあるけどね。
「時代」って書いたのは以前読んだ「巨人の星の事」を思い出したので。
巨人の星」のスゴイところって「野球漫画」と見せかけて、実は・・・ってトコだと思うんすよ。
「野球=団体競技」というフォーマットを素材としているものの、あくまで物語は「星VS花形」などといった個人の対決。
その証拠に、というか彼らが通っていた高校の野球部員のほとんどにはキャラクター設定どころか名前も無い。
当然、練習のシーンも無い。「みんなで力を合わせて」どころか存在すら抹殺されている。主人公クラスの努力や苦労はしつこいぐらい描かれてるのに。
今の「野球漫画」ではありえん。
話を「ガッパ」に戻すけど、どの辺に「時代」を感じたかっていうと、やっぱり「都合の良さ」って部分だろう。
「特撮がチャチだ」とか、そんなのはどうでも良いのだ。
「都合」というか「こじつけ」というか「つじつまがあわない」というか・・・設定がユルくて、画面に映っている登場人物の中だけで物語が進行していく事に「違和感」を感じるのだ。
ものすごくいろいろな事を巻き込んでいるはずなのに。
この物語は簡単に言ってしまうと「金もうけしか頭にない社長」と「自分の名誉の事しか考えない研究者」が「違法で日本国内に持ち込んだ怪獣の子供」を「怪獣の親が取り返しに来て日本をメチャメチャに破壊する」という話だ。
同じように破壊活動をする「ゴジラ」は「水爆の実験」といった社会問題が原因となって出現してるけど、「ガッパ」はあくまでも「個人の欲」それも、そこに登場している人物のワガママが原因なのだ。
何万人かの人命が奪われ、被害が進行していく中「子ガッパさえ返せば」という提案にも「儲け」と「名誉」の為に「絶対手放さない」と意地を張り、さらに日本にダメージを与え続けるものの、最後は「社長の娘(幼女)」に説得されて「子ガッパ」を返し、ガッパ親子は日本を後にしたのでした。しかし、そんな社長や研究者に嫌気がさし、ひとりの女性カメラマンが会社を辞めて結婚する決意をしました。めでたしめでたし!
で、「終」の文字
脳が溶けるかと思った。
もう「ツッコミどころ」の騒ぎでは無いよね「あの〜大丈夫ですか?」と心配になってしまうよ。
この「社長」や「研究者」の責任はどうすんだ?関与した「女性カメラマン」も結婚どころじゃないだろう。
日本の復興は?
そして「日本を離れた」というだけで、あの怪獣はまだどこかにいるんだぞ。「日本以外」(画面の外)ならどこで暴れても構わないってか?都合いいよな〜
しかし、あんな事もそんな事も関係無く「名前のある登場人物」の都合だけで完結するものすごさ!
この「感じ」を音楽にたとえるとすると・・・
もう「主旋律のみ!」
「オブリガード」も「ベースライン」や「コード進行」もない。「イントロ」も無く突然始まり「アウトロ」も無く唐突に終わる。しかも、その「メロディー」は決して元の調に戻れないぐらいに転調しまくっている!
ようするに「おっさんの適当な鼻歌」と一緒!
もちろん「鼻歌」そのものを否定するつもりはない。ただし「鼻歌」はあくまで「個人の楽しみ」であって「人に聴かせる為の物ではない」と言う事。
「鼻歌」のCDが無いのはそういう事だろう。
「聴かせること」を目的に大勢の人を相手にした「作り手」と「鼻歌」に関係性を持たせるとしたら「鼻歌の元ネタになりうるものを作る」という部分だろう。
ところが「大巨獣ガッパ」は大勢の人に向かって「映画」というスタイルで「鼻歌」をやっているのだ。
そこがスゴイ。
だから、まぁ「この時代だからこそ」って「おおらかさ」が良いね〜とも思うワケです。
なにもかもが作り込まれて複雑なモノばかりの現代の方が一概に「優れてる」とは言いきれないし。
ぐっとくるシンプルな「鼻歌」も悪くない、と。
ただ、この映画が「見た人に伝えたい事」はものすごくシンプルで純粋なのはわかる。
しかし、表現方法までシンプルで純粋過ぎる為に「伝えたい事」よりも「おいおい!」って部分がクローズアップされてしまうって事なんだろうな〜
長々と何が書きたかったかというと、結局
おもしろかった
ということなんですけどね。