訃報に身悶えする

bousisensei2008-03-10


先週の広川太一郎さんに続き、今度は上田現さんと直接係わりは無いものの、その活動や作品を「良く知っている人」の訃報が。
かろうじて上田さんとは一度だけお話をさせていただく機会もあったので、余計にショックは大きい。
この「なんとも言葉にできない感じ」はなんだろう?
悲しいとか寂しいではない。残念や悔しいとも違う。ただ「これからあったであろう未来」と「そこで生れたかもしれない作品」の事を思うと、身悶えするほど行き場の無い感情が沸き上がって来るのだ。
でも、それってホントに死んだ人に対しての感情だろうか?
ここでも再三書いているけど「人は死ぬ」のだ。
幸いと言うか、我が家では(特に母から)そういう教育を受けていた。
簡単に言ってしまうと、こういう事だ。
「人は生れてきた順番に死ぬ。だからお母さんがいつか死んでもあなたは悲しむ事は無い」
「その代わり、その順番が違ってくるような事は絶対やってはいけない」
つまりは「老衰で寿命を真っ当する事」が一番の幸せであり「それを周りの人が悲しむ事は無い」ということか。
人間にとって一番ツライのは「悲しい思いをする」という事だと思うんだけど「少しでもそういう思いをしないように」「人にそういう思いをさせないように」って教えなんだと思う。
とはいえ、「自らの命を絶つ」という大バカヤローは論外としても、病気や事故などで「老衰」まで生きているのは結構難しいのだ。「志半ば」で人生を終えてしまう事の方が多いのではないだろうか。(もちろん「老衰」でも、なお悔いが残るのだろうけど)
そこで思うのだけど「命の大切さ」みたいな事を説いて周る事にどれだけ意味があるか。
一番の理由は「人間は普段なにも考えていない」と言う点。
「命の大切さ」などといった「わかりきった事」に対して、さほど「なぜ?」と思わないのではないか。だから無駄に時間を費やす事になるのではないか。
それに「命の大切さ」といった事を、今元気に生きている人に言われてもイマひとつ説得力が無い。その言葉に重みを出せるのは「悔いの残る人生を終えてしまった人」だけなのではないだろうか。
だとすれば、今生きている俺たちには「命の大切さ」って事よりも「命のハカナサ」って事の方が切実な気がする。
すなわち「人は死ぬ」という事だ。
最近、前の日に呑んだ酒が以前より残るとか、疲れが出やすくなったとか少しづつ「衰え」を意識する事があるけど、10年前20年前に比べれば確実に「死」に近づいているのだから当然な訳で。
すごく「時間が無い」という気持ちになる。
よく「破滅型」などといった、特に芸術家などではある意味「美しい」とされる作風や生き方もあるけど、俺は良いとは思わない。「周りの人が悲しむような死に方」をしてはいけないのだ。
「死に急ぐ」必要は無いし、むしろ大半の人は「時間が足りない」はずだ。
だから、なんとしてでも「老衰まで生き延びる努力」をして、それと同時に「いつ死んでも悔いが残らない」為に毎日を生きていかなければならないのではないだろうか。
突然の訃報は「命の大切さ、生きている事の素晴らしさ」を思い知らされる強烈なメッセージだ。
「死ぬ事」によって初めてリアルさを持って発信されるメッセージに身悶えするような感覚になるのかもしれない。
何故なら「あまりにも一方的なやり方」じゃないか?
発信した相手はもういなくて、受け取る側だけで感情をコントロールしたり気持ちを処理しなければいけない。
訃報に対する「なんとも言葉にできない感じ」っていうのは、ひょっとしたら「一方的で勝手なメッセージ」に対する怒りなのかもしれない。
まだ、俺はそんな準備も「必ずいつか来る日」に対しての心構えもできていないのに。
そんな自分にも腹を立てている状態が「なんとも言葉にできない感じ」の大部分を占めているのかもしれない。
だとすれば、やっぱり生きてる俺たちは「命のハカナサ、必死に生きていくカッコ悪さ」ってメッセージを作風や生き方に出していくしかないのではないだろうか。
「今日、生きている幸せ」を噛み締めるより、死を意識して「もっともっと焦れ」と言うべきなのかもしれない。
その代わり、というか俺は「墓の前で泣くな」という事は歌わないと思う。
できれば、葬式も盛大にやって、墓参りにもバンバン来て、俺の事を忘れないで欲しい。
一応、今のところ悔いの残らない幸せな死に方をする予定だから、みんなも悲しまなくていいのだ。