私はウソつきです

bousisensei2008-06-06


なんかあれですね。わかるわけないか「あれ」なんて言っても。昨日、一昨日と「食いモン系」の話しを書いたんですけど。本人の中では「同じような事」を書いてるつもりでも。はじめはそこそこに共感を得られたものの、続編は明らかに反感を買うという。なんだか、調子に乗った政治家のセンセーみたいだなぁ。なまじっか注目されるような発言をするモンだから、バッシングもひどいって。一部の人にせよ「あるある!」と思わせて、「それはない!」と裏切るような事をする。さらに「別にいいもんね」みたいな開き直りなシメ方で終わるって、ハナから「共感を得られない」事を前提にしたような書き方。はたして、ガソリンを一瞬だけ値下げしたのは良かったのか?むしろ再度値上げした時の「高いなぁ」って気持ちを増長させただけではないか?それに対して「元の値段に戻っただけ」という言い方は、あきらかに頭に来る話だ。
あれ?何書いてんだ。
人間は「それさえなければ」っていう、命取りになりかねない「余計な一言」が言いたくてしょうがない生き物なんですよね。「それはなぜか?」って考えると、人間はストレスを感じるからではないか?と思うのです。「裸の王様」という童話がありますが、あの話のテーマは「ストレス」なんだと思います。たとえば、この「うさぎのえさ」は以前に比べて、これでもずいぶん「物腰の柔らかい」良い人が書いてるような文体・内容になってると思います。ただし、別に俺の人柄が変わったとかそういうことでは無く、諸般の事情によりいろんな事を自粛しているのです。で、人柄の変わらない同じ人が書いてるワケですから、どうしても「書きたい事が書けない」という場合も生じてくるのです。それが「本音」なんですけど。もちろん、みなさんもそうやって日々「思ってもいない事」ばかり口にして生きてる事と思います。たぶん、好き放題にやってるように見える人も「そう見えるように」振る舞っているだけでしょう。俺も、ここではいろんな人格の人になって書いているので「ホントかウソか?」なんて考えながら読むのは無駄です。ホントはこれっぽっちも思ってない真面目な話や、全然おもしろいと思ってないオススメの音楽を紹介している事もあります。という話はウソです。と書いても、これもウソかもしれません。「ぴあ」などの情報誌ですら時々間違いがあるように、世の中のあらゆる事は「信用するため」ではなくて「疑うため」にあると言っても良いぐらいだと思います。「私を信じてください」などと寄ってくる人ほどアヤシイものはありません。じゃあ「私はウソつきです」と言われたら。これも、信用できないというか究極の「ウソ」ですよね。よく考えると正直者が言っても、ウソつきが言っても「ウソ」なのです。だから疑って、自分で考える機会を作るためにあらゆる事はあるのだ、と思うのが正解ではないでしょうか?
むちゃくちゃな話になってきたので、関係無い話でも。って、それもむちゃくちゃか。
最近、一般人が「スベル」とか「かむ」といった芸人用語を普通に使うのがすごくイヤなんですけど。なんでイヤかっていうと、スベル・かむといった状態を今まで何て言ってたっけ?と「そういえば」と考えた時に思い出せなかったりするからなんですね。そういった言葉が一般化する前を知ってる大人がそんな状態なんだから、これから言葉を覚えていく子供はどうなってしまうのか?と思うのです。言葉は増えてるどころか、むしろ減ってしまうのではないか?とか、微妙な心情を表現する方法をドンドン失ってしまうのではないか?と思うのです。で、まぁみんながよく言う「ドン引き」とか使う「引く」っての。一応あれって「寄せられてた」ってのがあるから「引く」わけですよね(という意味合いすら気にせず使ってる人が多いと思うのですが)反応があるってのは、それだけちゃんと話を聞いてるって証拠なんで、せっかくの「余計な一言」にはドン引きしましょう。
で、結局何が言いたいかっていうと「昨日の話は無かった事にして下さい」じゃなくて、本気だよって事です。