静岡県日本平の野外フェス「頂」に渋さ知らズで行ってきました。

緊急憤慨コラム日本平の話は後!)
差別しろ!
注意!非常に誤解を招きやすい文章です。日頃「問題意識が高い」と自覚している人の中にありがちな、文章より単語に反応してしまうアワテンボさんはちゃんと読んでね。
「差別」というのは人間として最低な行為だと思います。
それは、何でか?っていうと「される側」の気持ちを考えていないからで、あきらかに「する側」が相手を見下した行為だから。
「差別をやめよう」みたいな言葉はよく目や耳にするけど、いまだに「被差別○○」(こういう伏字はあまり好きでは無いのですが、冒頭で注意書きをしたものの検索に引っかかるとめんどくさそうなので)なんてのは「偏見」という形で心の奥底でしっかり息づいていたり、ハンデのある人を取り巻く環境にはハッキリ言葉にはしなくても実際は「平等ではない」という事もあるのが現状だと思います。
ところが差別が無いという「ホントは良い状態」なんだけど「無差別」という言葉にすると、とたんに「あれ?」となりませんか。
実際「無差別」を辞書で調べてみると「差別のないこと。同一のものとして扱うこと。」と出て来るのですが、それに続く言葉は「殺人」であったり「攻撃」であったり。唯一「良い意味」(?)で考えられるのは柔道など格闘技の「級」ぐらいでしょうか?(よく「何が食べたい?」って聞くと「なんでも良い」って言う人がいて腹が立つのだけど、俺はこれを「無差別食欲」と呼んでいるのだが)
殺人は差別しなきゃ。
もちろん、あくまで人を殺す事を推奨するわけではありませんよ。
それでも、殺したいほど憎い人が居て。殺される人との間にしかわからない関係性があって。殺す側のまったくもって勝手な思い込みだけど「こいつは死んでも良いヤツ」という理由があって思いつめた上で犯行に及んだとしたら。
やってはイカン事だけど「気持ちはわからないでもない」となるのです。
やっちゃダメだけどね。
殺される側も「思い当たるフシ」があって「まぁ恨まれてもしかたないか」って場合もあるでしょう。
たとえば、無差別殺人の被害者の遺族にとって犯人は「殺したいほど憎い」だろうし、誰もが「こいつは死んでも良いヤツ」と思うでしょう。
ものすごく前にここに書いた(2005年11月11日)「わが国犯罪史上、未曾有の大惨劇」と言われる「八つ墓村」のモデルにもなった「http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/tuyama.htm」(←クリックすると詳細がわかります!是非!)の話しも、結局犯人の「被害妄想」じゃないかと思うのだけど、彼がそう思った経緯のホントのところはわからないので断言はできない。
それでも、自分が住んでいる村の人々を「殺してやりたい」と憎み、入念な計画を練り、凶器を準備して実行に移す。
そして目的を達成する。
「人殺し」という方向性は大間違いだけど、自分が「こうしたい」と強く思った事を達成するまでの経緯は人間としてはスバラシイと思うのだ。(くどいようだけど「人殺し賛美」みたいな事が言いたいわけじゃないからね。)
だから突発的に「誰でもよかった」などと人を殺すヤツは許せんのだ。
さらに理由が「生活に疲れ、世の中が嫌になった」だと?それは全然「知らない人を誰でも良いと殺す理由」になってないじゃないか。
たとえば生活に疲れて世の中が嫌になるキッカケが職場の上司や同僚が「ネチネチうるさい事を言う」だったとして、その上司や同僚を「殺してやりたい」と思ったのなら良いとは思わないけど理由としては「あり」だとは思うのだ。
人を殺すならちゃんと恨め!
とにかく被害者が「どうして俺?」って思いながら死んでいくのは気の毒でしょうがない。
ところがここで「無差別殺人はイカン」と書けないのだ。
どうも、この「無差別」がシックリこないからね。
「差別やめよう!」「差別イカン!」も大切ですが。
「無差別殺人」って言葉を普通に使うのやめませんか。
一番、言いたいのはソコ。