そこに「それぞれ」はない

bousisensei2009-01-16

しょっちゅうココに書いてる事で、俺の好きな考え方に「人それぞれ」というのがあります。
で、いろんな本とか言ってる事を見たり聞いたりしてると、同じ事を考えてる人は当然多くて。
ただ、そういった「個性の尊重」みたいな話によく付いてくる「正解はひとつではない」的な物言い。
あれはどうか?と思うのです。
言いたい事はわかる、でも誤解してしまう人も多いのではないか?ということ。
あくまで「正解」(広い意味で言う「正しい事」ではありません)はひとつだと思うのです。ただし、その正解の「導き出し方はひとつではない」という事でしょう?ホントは。
たとえば料理をする時。
料理学校に行ったり、どこかで修業する人もいれば、我流でって人もいるでしょうし。
セオリーやレシピを重視する人もいれば、インスピレーションで上手い事やっちゃう人もいるでしょうけど・・・
結局の所は食べた人が「美味しい!」と言えば、それで良いという。
というか、その為に料理は作られるべきである、という。
ようするに、この場合の正解は「美味しいと言ってもらう事」だと思うのです。
こういう事を書くと「客にコビてる!」と怒る人もいますが。
で、そういう人は決まって「自分が納得の行く事をするのが一番だ!」と言う人もいますが。
こういう人が「正解はひとつじゃない」を誤解してる人だと思うのです。
ようするに「客に喜んでもらうもの」もあれば「自分の納得を追及するもの」もあると、それぞれ別の正解だと考えているわけですね。
というか「自分が納得できる事をしたってお客さんにはわからない」「お客さんのレベルに合わせるとしたら自分は我慢しなければいけない」などという、とんでもないエゴな事を言っているようなものですね。
たしかに多少自分を曲げないと、お客さんに喜んでもらえない事もあるでしょうし、そういった事をしてでも、お客さんに喜んでもらえた方が良いという考えの人もいるでしょう。
こういった行為に対して「コビてる」というのであれば、そうかもしれません。
だからといって「自分さえ納得すればお客さんなんか関係無い」というのは「料理をする」という土俵の上では間違いでしかない、と思うのです。
だから、この場合の「人それぞれ」は「納得を追及する人」「そうでもない人」というのであって、あくもでも最終的には食べた人が「美味しい!」というのが正解だと思うのです。
実際、食べる側にとってみれば「シェフのこだわり」なんてのは、どうでも良い事であって、素材がどうとかってのは関係ないのです。
もちろん、良い素材を使ってるのはウレシイのですが、それがちゃんと「美味しい」につながってなければ意味が無いと思うのです。
「こだわり」や「納得」は得てして、ただの自己満足になってしまう事も多いのではないでしょうか?
だから、こちらが「美味しい!」と言っているのに作った人が「納得がいってない」とか「ホントはこんなもんじゃない」なんて言われると、気分が悪いだけです。
「じゃあ、そんなもん出すなよ」って話でしょ?
こんな人に他人に料理を作る資格なんてないんじゃないですか?
「一生、山にでもこもってひとりでやってろ」って話でしょ?
ねぇ?
前にもココに書いたんだけど、ライブの感想で「やっている人達が一番楽しそうでした」ってヤツ。
あれって、取りようによっては「見てる側はそうでもなかった」って言ってるようなもの。
よく「楽しそうに演奏する姿」ってのを強調するような記事も見かけるけど、実際の所お客さんにとってプレイヤーが「ホントに楽しんでるかどうか?」なんてどっちでもいいんじゃないか?
結局の所、お客さんにとっては「どんだけ楽しませてくれるか」ってトコだけでしょう?
だから、やっぱり演奏する側として、音楽の「楽」は納得がいくように「楽しむもの」であっても、最終的には「楽しませるもの」にするのが正解なんじゃないですかね。