正確な気持ち

こういう事はあまり書かない方が良いのかも知れないし「また、ヒネクレタ事を」と思われたり、無駄な反感を買うだけかもしれないけど・・・
ホントに「そう思ってる」んだからしょうがない。
誰かが亡くなって。
それについて、いろんな人が個人のブログや日記に感傷的な事や「お悔やみ」みたいな事を書いているのを見て「イラッ」とする事がある。
もちろん、全部が全部じゃないんだけど。
たとえば今回、忌野清志郎さんが亡くなって、俺の周りにも「ファンです」という人は多いから、たくさんの人がその事について書いている。
俺も昨日書いたし。
で、そこにも書いたように俺自身も大ファンです。ほとんどの作品を聴いていると思う。
ただ、みんなが書いているのを見て「そこまで感傷的になるか?」と思うのだ。
もちろん「思い入れ」は人それぞれで計り知れない部分もあるけど「悲しい、悲しい」と書かれてるの見る度に、最近の若い人がなんにでも「ヤバイ」という形容を使ってるような「アホっぽさ」を感じるのだ。
「ありがち」といったら言い方は悪いけど、共演歴のあるミュージシャンや関係者が「親しい間柄」だからこそ書けるエピソードを交えた追悼分をリライトしたような物も多い。
「私とキヨシロー」みたいな。
ま、俺が書いたのもそうなんだけどね。
ただ、その中で文章だけでなく、書いた人の気持ちもリライトして「悲しい」となっていないだろうか?
たかが「いちファン」としての「思い入れ」だけのエピソードで、親しかった人のようにそこまで「悲しい」という気持ちになれるものだろうか?
「悲しい」という気持ちは、そんな簡単に感じて良いのだろうか?
たとえば、俺の周りにいる人で、一番親しくしていたであろうテナーサックスの片山さんは何十年も一緒に音楽をやってきているわけで。
喪失感やら想い出やら・・・とにかく、いろんな感情が堰を切ったように押し寄せてきたと思う。
それに比べて、俺はたった1回ステージでご一緒させていただいただけ。
それも「渋さのゲスト」という形だったから本番が終わった後に握手こそしてもらったものの、顔も覚えてないだろうし、名前なんか知るわけもないので、正確な「共演」とも言いがたい(ミュージシャンによってはそういったケースでもプロフィールの「共演者欄」に書く人もいるけど)
定期的にコンサートを見に行っていたわけでもないから「レコードを聴く」とか「インタビュー記事を読む」という、接点とも言えない関係性しかない「一方的な大ファン」なのだ。
だから「亡くなった」といっても、今までと何も変わらない。
棚からCDや雑誌を引っ張り出して来れば今までと同じように大ファンのスターはそこにいるのだ。
もちろん「この先、二度と」というのはあるから、未来の可能性を残念に思う事はあっても、過去に感傷的になって「悲しい」などと言うのは「おこがましい」と思うのだ。
俺程度の人間が。
別に無理して「悲しい」と言わないようにしているんじゃなくて冷静に考えても、俺が「悲しい」と言ったら「悲しさに酔ってる」だけだと思う。
まったくリスペクトのない自己満足だと思う。
つまり、亡くなった人をネタに自分を「悲劇の主役」に仕立て上げてるようなものだ。
それは大好きだった人に対して、あまりにも失礼だと思う。
たぶん、いろんなブログ・日記を読んで「イラッ」とするのはそこだと思う。
よく葬儀などを「親族だけで」ってするのは、ハッキリ言ってそういう失礼な人に来て欲しくないってことでしょう?
それでも「悲しさに酔ってる人」が大挙して告別式に押しかけたり、ライブなどで追悼という名目のカバー演奏をしたりするんだろうなぁ。
若い人がなんでも「ヤバイ」で片づけるみたいに、簡単に「悲しい」って言うのはやめた方が良いと思う。
自分の正確な気持ちに気付くこと。
その感情を「伝わる言葉」で表現する方法を身に付けておいた方が良くないか?
大きなお世話だろうけど、少なくとも俺はそうしようと思ってる。
この先「片山さんにとっての清志郎さん」みたいな親しかったり大切な人と、別れなければいけない場面はいくらでもあるだろうから。