なにを悟ったか

bousisensei2009-05-30

注・今日はいつにも増して理屈っぽいです、それこそ「屁が出るぐらい」(そして長い)


先一昨日「最高の一日」って話を書いて寝て。
結構早い時間に寝たもんだから、真夜中に目が覚めたんだけど、もう少し寝ようと横になって、でも寝付けなくて。
いろいろ考えたんですよ。
「なんで、さっきはあんなに楽しかったんだろう」と。
で、思いをめぐらせて。
結局、あの日はKITO,Akira BrassBand!(KABB!)の事を朝から晩まで考えていたのですね。
で、その「KABB!ってのは何か?」っていうと、easygoing!のライナーにも書いたけど、【自分たちを知らしめ、「やってることを世に問う」】という事ができる場所なわけですよ。
それが昔からいつも言ってる「This is our music! We are KITO,Akira BrassBand!」って事なんですけど、これって大袈裟に言うと「自分が生きる」ってことの「意味とか価値とか」って世界のような気がするのですね。
基本的には「世に問う」という姿勢が「生きてる意味」であって評価はどうでも良いと思ってます。
で、その「問う姿勢」ってのはなにか?っていうと、上級者やたっぷり練習を積んできた人にありがちな「得意げに腕前を披露する」みたいな「おごった姿勢」ではないという事です。
もちろん、自分のやっていることに「自信」がなくてはいけないんだけど、それは「自慢」することではない。
自信に対して謙虚であること、その自信を他人に理解してもらおうと努力するのが「問う姿勢」だと思うのです。
だから、常に「問い続ける」ということさえしていれば、人間は生きている意味があると思うのです。
ただ、そうはいっても、世に問うた以上は評価は受けるべきですよね。
「どうですか〜?」って質問しといて、相手の応えを聞かないってのは失礼。
で、その相手の言うことが「手応えのあるもの」だった場合に「生きてる価値」がうまれると思うんですよ。
仕事ってなんでもそういう構造ですよね?「あなたには生きてる価値がある」「死んだら困る」ってんで「なにか食べなさい」とオカネがもらえるという。
もちろん、得意げに腕前を披露してもオカネはもらえますけど、それってもらう側が「当然!」って思ってる感じがしませんか?
オカネってのは「この人に絶対払いたい!」というのをアリガタクチョーダイするもんだと思うんですけど。
まぁ、オカネ云々は置いといて、これまでも何度かKABB!では「手応えある反応」ってのを感じながらやってこれたのです。
で、特にこの前のRORフェスでは、それを強く感じたのですね。
それは「生きてて良かった」と自分で思うってことじゃなくて「お前は生きてて良し」って。それがお客さんが言ってくれる「ありがとう」なんだと思うんですけど。
さらにちょうど、先一昨日その時に撮ってもらった写真が届いて見たのですね。
写真って「過去」のものだから普通は見ながら「楽しかった」「良かった」なんだろうけど、なんていうんですかねぇ「明日からもがんばろう」って思える姿が写ってたというか。
とにかく「未来」に対するビジョンがドンドン見えてきたのです。
そうなってくるとKABB!の事を考えてるのが楽しいし、考える事で自分が生きることを「価値のあるもの」にできるってことじゃないですか。
だから、先一昨日はあんなに楽しかったんだなぁ、と。
で、散々長いですけど「前置き」はここまで、ここからが「悟り」。
ここで考えを終わらせると「じゃあ他全部ヤメ!」ってなりますから。それでは「これからは楽しいことだけ」じゃなくて「楽なことだけ」です。
さっき書いた【自分たちを知らしめ、「やってることを世に問う」】の反対はなんだろう?と考えたら
【人のふんどしで相撲をとる】
ってやつだと思うんです。「乗っかり人生」みたいな。
「意味ない・価値ない」までは言いませんけど、それはちょっとねぇ。
で、たとえば俺の場合なまじっか自分でリーダーバンドなんかやってるから、よそのバンドに行って「ワー!」ってなっても「なんか人のふんどしで・・・」って気になることが最近たまにあるんですけど・・・
それは違う!と。
そんなこと言いだしたらKABB!のメンバーも全員同じことになってしまうし。
どこに行っても、先一昨日楽しかったような充実した気分になれるようにすれば良いのだ!と。
音楽もバンドも生活もなにもかも全部。
「ここでは自分の思ったことができない」とか「あの頃は良かった」とか言わない。
「周りが変わってしまった」とかも思わない。自分もそうであるように他人も変わって当たり前。
どんな状況でも「自分らしく」すること。
でも、自分に思い通りのことや好きなことだけやってて「自分らしい」もあったもんじゃない。
それはただのワガママであって、どこでも「我を通す」ってのが「自分らしく」ではなくて「理解をしてもらう」ことで「自分らしさ」は発揮できるのでは?
つまりは「This is my life! My name is KITO,Akira!」
どこでも問い続けることができるってことですよ。