うたはうたで

こんな写真でいいのか?

先日は「うたはえらい」というバンドマンとボーカリストの関係性の話を書きましたけど。
どんなシチュエーションで誰が相手でも「うたがえらいか?」っちゅうとそうでもなくて。
ボーカリストも「え〜?」「まいったなぁ〜!」なんてこともあるでしょう?
ボーカリストの自作曲でない場合、当然「作詞家」が歌詞を作るわけですが・・・
もちろん、作詞家のセンセーも歌う人をイメージして作ってるんでしょうが、実際の本人とはかけ離れてる場合もあるんじゃないでしょうか?
それこそ「歌う方の身になれ」とでも言いたくなるような非常にテレくさい内容でも作詞家にとっては「俺が歌うわけじゃないもんね」なんてことも。
たぶん世の中にはそうやって本人のキャラクターとは別の世界観を歌わされて、あたかも「そういう人」というイメージを持たれている気の毒なボーカリストってのが結構いるんだと思います。
歌詞にはわかりやすい意味がありますからね、同じ他人が作った曲をやるにしても演奏家より「別の自分」が一人歩きするケースも多いんじゃないでしょうか?
単純に自分を指す一人称が「俺」か「僕」の違いでも「普段使い慣れていない方」が歌詞に書かれていた場合、歌った時に違和感があると思うんだな〜
さて、ワタクシも歌詞を作ったりするわけでして。
日頃ボーカリストの「やっぱり」に泣かされて来た身としては、存分に「俺だったら絶対歌えね〜」って歌詞を書いてもいいんですけど。
そんな個人的な恨みを晴らす事にエネルギーを使うのもバカバカしいのでやりません。
それに、この頃作った曲を歌ってもらっている柳川タカシくん。
彼の「声色」や「歌いまわし」を考えると、普段演奏家に対して本人を想定した「アテ書き」をするみたいに「これしかないんじゃないか?」というメロディーや歌詞が自然と出てくるのです。
ホント「他の人じゃダメ!」っていう。
というか、そういった「うたの人」がいて頭の中で「完成した音楽」が具体的にイメージできるから「歌モノ」の曲を作ってるんですけどね。
「とりあえず歌モノをレパートリーに入れよう!誰かボーカル呼んで」じゃなくて。
ただ、彼の「声色」や「歌いまわし」から感じる素直さや透明感、スーッと染みこんで来る「味わい」から浮かんでくる歌詞は「俺だったら絶対歌えね〜」になっちゃうんだけど。
だから、これは別にイジワルではなくてですね、ホントに「彼のうたを作りたい」というか・・・う〜ん、実際は「俺にはないもの」を持っている彼に「俺の思ってる事」を伝えてもらおうとしてるってことなのかもしれないなぁ。
とか言いつつも、ホントのところ彼のキャラクターをわかってるか?っていうと・・・どうなんだろう?
シンガーとしてのポテンシャルっつーか「活かしどころ」ってのはかなり自信があるんだけど。
なかなかヒドイよ、彼のブログ。透明感ゼロ!
(歌はいいんです!→柳川タカシ WEBSITE