で、なにが言いたいかという事なのだが

最近「観念」の話も書いたけど、ぶっちゃけ5年もやってきた自分のブラスバンドについて思うところがあった、ということ。何度も何度も同じ事を言い続け、結局最後までわかり合えずにバンドを離れてもらった人もいる。俺としては「発信する人の目線の低さ」について繰り返し言ってきたのだけど、結局「発信する」ということについて「観念がないのでは」と気付いたのが先日書いたブログの話。よく「自分は良いと思ってやっていたけど、人から良くない評価をされてガッカリした」という話を聞くけど、こういった「自分の事が見えていない」という人は「啓発する・される」という事にあまり頓着がないのではないだろうか。つまりは「啓発という観念がない」。そういった人間に「人前では…」という話をしたところで「お客さん第一」みたいな変な「プロ根性」みたいなものが生まれるだけで、結局「発信」そのものに変化が出る訳では無かったということか。「満足の行く事ができていないのに、サービス精神だけ旺盛」という本末転倒な「プロ根性」に付いてくるのは、前記した「自分は良いと思ってやっていたけど、人から良くない評価をされてガッカリした」という事だ。「どうです?楽しいでしょ?」などと押し付けがましい事をする必要などないのだ、感じ方は人それぞれ、良くない評価もあまんじて受けようじゃないか。その為にも発信するものは「感動」とか「喜び」といった形式的なものでなく「啓発」という問題定義にも似た「受け手に委ねた」自由度の高いものでいいのではないか。
もちろん、これは俺が一人で「大切」だと思ってるだけの事かもしれないので、みんなに確認を取った訳でも強要する事でもないのだが、「自分の楽しみ」の「一歩先」に進む方法のひとつだとは思う。もし、もっといい方法を知っているのなら、それを実践すれば良いし、是非教えて欲しい。