疲れ出た〜

bousisensei2008-10-20


昨日夕方東京に戻り、意外と元気なんで景気良く寿司なんか喰って(といっても買ってきた寿司ですよ)そんでちょこっと呑んでバターンと寝たら。
今朝の起きれん事よ。
全身筋肉痛のような「身体バキバキ状態」
細部にまで気を張り巡らして、一切「手抜き無し」のコンサート。
そりゃ、疲れますよね。
でも、それぐらい「全力を出し切る」勢いで向かっていって、初めて。というか、あの結果なんだと思います。
まぁ、おもしろかったでしょ?
で、ふとんの上で「う〜」となりながら、さらに昨日の「うどん屋」の事を考える。
結局、なんで俺はあの店にそんなにムカつくのか?
なんていうか「美味い物を出してる」という自閉症気味の「おごり」
言い換えるならば「自己満足」なのかなぁ〜
お客さんに「美味しいうどんを食べて欲しい」「くつろいでもらいたい」って部分が明らかに欠落しているのです。
たとえば、昨日「釜玉」を注文したメンバーがいたんだけども、あれって「茹で上がったばかりの熱々のうどんに玉子をまぶす」っていうのが非常に重要なポイントだと思うのです。
実際、注文をしてお盆に乗せてもらうまでは確かに「釜から揚げたてのうどんに、今玉子を乗せましたよ!」ってのがわかるんだけど、その後がね。
レジの手際の悪い事よ。
もちろん、一生懸命やってるのはわかるんですけど。
テーブルまで持っていった時には、もう湯気が立ってないのです。それで釜玉の「ホントの楽しみ」は味わえるのか?と思うのですね。
なぜ、こういう事が起こってしまうか?というと、レジの人に「釜玉は茹で上がったばかりの熱々のうどんに玉子をまぶすのが非常に重要」という意識が欠けているからだと思うのです。
それは、店主がスタッフにそれぞれの担当している仕事の「目的意識」をキチンと持たせていないという事ではないでしょうか?
釜玉に限らず「麺類」を扱っている店としては「1秒でも早く口にしてもらいたい」という気持ちが優先されて当然だと思うのですが、それが無い。
ガラガラの店内で、遊んでいるスタッフがいるにも関わらず「セルフだから」という理由で茹で上がるのに時間のかかったお客さんを呼んで取りに来させる。
持ってきてくれても良いのではないか?と思うんですけど。
たしかに「基本のマニュアル」は大切だと思います。
でも、それを忠実に守る事は誰にでも出来るのです。
「突発的な例外事項に臨機応変に対応する」というのが「プロの仕事」なんじゃないですかね?
で、それの判断基準は常に「どうすれば喜んでもらえるか」という事を考えれば自然に出来ることだと思うのです。
「プロの仕事」ってのは、けっして「スゴイことをする」では無いと思うのです。
「人に喜んでもらう」のが先ずあって、その為「スゴイことをする」必要も出てくるだろうということです。
その順番がおかしくなっているのが「自己満足」ですね。
「くつろいでもらいたい」という気持ちは、特にこういったセルフの「先にお金を払うシステム」の店に欠けている場合が多く、こっちがまだ喰ってるのにスタッフはまるで「俺たちがいないものとして」振る舞っている場合がよくあります。
実に落ち着かない。
あれはつまり、お金のやり取りが終わった時点で「店と客」の関係も終了してしまっているのですね、彼らの中では。
一応、帰りがけに「ありがとうございました」という店はあるけど、ひどいとそれも無い。
もちろん飲食店は「美味しい物を出す」という事に一番命をかけていれば良いのです。
でも、それと同じぐらい友人同士で来たお客さんが「美味しいね」と言って食べたり、店を出た後に「美味しかったね」と帰ってもらうことに気を使うべきじゃないでしょうか?
ひとりで来たお客さんには「また来るよ」と言ってもらえる様に。
考えてみれば、コンサートなんかも予めチケットを買ってもらうシステムです。そういった意味では全く「他人事」ではないのですよ。
『お客さんが払ったお金に「見合ってるか・見合ってないか」という判断をするのはいつか?』
という事は、ちゃんと考えていないといけないんじゃないかなぁ、と思うのです。
今日ダラダラ書いたような事は、気にならない人には全く気にならないような事だと思います。
実際、このうどん屋は美味しいですし。
でも、俺はこういった事が気になるし、そういった人間が作ってるのが「鬼頭ブラスの音楽」だという事はご理解いただきたいと思うのでありますよ。
俺はゲイジュツカとかアーティストって言われるのがイヤで、音楽やるのはサービス業、自分は商売人だと思ってます。
当然「喜んでもらう」事に対して「奉仕の気持ち」なんて全くありません。
しかし、儲かってないところがステキでしょ?