必然

これ火葬場ですよ

昨日の「葬式の話」を読んだ大阪に住む兄からメールが来た。
俺は通夜に出れなかったんだけど「死生観」について、もう一人の伯母がまったく同じ事を言ってたそうだ。
なるほどね、母の実家である京都・福知山の山本家ではたぶん代々そう教えてきたんでしょう。
で、兄は「それよりも」と。
「伯母さんが愛知にいたからお母さんも名古屋に来た訳で、僕達が産まれたきっかけがそこにあることの感慨が強い。人のつながりなんてそんなものかもしれないが、そういう因縁を改めて意識した」と。
まぁ、ウチの母は奈良の女子大を出てるんですけど、その後地元の福知山でもなく、学校のあった奈良でもなく、名古屋に行ったというのは「姉を頼って」であったと。
そこで父と知り合って、結婚して・・・で、俺たちがいると。
これは「そうなんだ〜」「そうだよな〜」というのもあるけど。
「そんなこと言い出したら!」というのもあるんじゃないかい?
けっして否定的な意味じゃないんだけど。
レベルは違うけど、たとえば先日のお葬式の帰りにライブを見に行ったって書きましたが、お店には地下鉄に乗って行ったのですね。
で、しばらく行ってない店というのもあって、ウッカリ出る改札をまちがえてしまったのです。
そのまま、地下道を通ってお店に一番近い地上出口から出るという手もあったけど「まぁいいや」と改札に一番近い出口に向かって、階段に差し掛かったところで、5〜6年ぶりに会う知人とバッタリ。
その駅には確か8つの出入り口があって、ウッカリしてなければ当然別の所に行ってたわけだし、数分置きに走ってる地下鉄だから一本違ってたらとか、その知人だって1分家を出るのが早いか遅いかで・・・言い出したらキリがないぐらいの偶然が重なって「バッタリ」なわけですよ。
さらに言い出すと、なんで俺は地下鉄に乗ったかというと、たまたま知人がライブをやっていたという偶然だし、そもそもなんで名古屋に居たかといえば、それはモチロン伯母の葬式があったからだし。
「知人」とは言ったものの、その人とだって知り合いにならなかった可能性の方がずっと高くて、なんで知り合ったか?というと高校生の頃出入りしていたジャズ喫茶が主催するコンサートで初めて会ったんだけど、なんでそのジャズ喫茶に出入りするようになったか?というと最初は部活の先輩に連れられて行ったんだけど、なんでその先輩はその店に行ってたか?というとジャズが好きだったからであって、なんで先輩がジャズを好きなのか・・・は、知らないけど、ブラバンに入ってその先輩に出会ってなかったら、その店に行く事もなかったわけで。
そもそも、なんでブラバンに入ったか?というと兄の影響であって、なんで兄がブラバンに・・・
これはウマくつないでいけば「地球に生命が誕生した」ってところまで行くかもしれない。
これまでも「いつもとは違う道を通ったら探し物を見つけた」とか「扉が開いて新幹線を降りようとしたらホームの最前列に知人がならんでた」とか「新幹線の自由席の列にならぼうとしたら最後尾が辰己さんだった」とか・・・
ホント「なんでやねん?」「ありえへん!」って偶然があったり。
「もし、楽器をやってなかったら」とか「もし、誰々に出会ってなかったら」とか色々考えたりするんだけど・・・
「楽器をやるか・やらないか」とか「離婚するか・しないか」って自分で選択してるようだけど、ホントにそうかなぁ。
一応、目の前に二本の道があって選べるんだけど、自分が「○」だと思って進んだ道しかその先はなくて、もう一方には最初からその先の道がつづいてないようになってるんじゃないのかなぁ?
だから当然「あの時こうしてれば」みたいな後悔をして、もし時間が戻ったとしてもきっと同じ事をやらかすと思う。
「もし」の可能性で考える「違う人生」なんて無いんじゃないだろうか。
「もし伯母が愛知にいなければ」「もし母が名古屋に来なければ」「もし父と出会わなければ」・・・当然、俺も兄もこの世に存在しないわけですけど。
最初っから、その「もし」はないんじゃないだろうか。
自分では「思ってもみない」とか「偶然」って感じることも、すべて決まってるんじゃないだろうか。
そういった「神様のイタズラ」みたいなトラップが小出しに出てくるから、自分で未来を切り開いてるような気がしてるだけで、初めから全部プログラムが決まってるような気がする。
いくら努力してもできない事や何の努力もなしにできてしまうこと。
もちろん、努力してできた事や努力しなかったからできなかったこと。
全部含めて結果は決まってるんじゃないかなぁ。
ただし、その「結果」は絶対教えてもらえないの。
そういう風に考えるのも結構オモシロくないですか?
「偶然バッタリ!」みたいな事があっても「おもろいプログラム組んであるじゃねぇか」って。
ウマくいったことも、いかなかった事も自分の中では「正解」だし。
すんなり出来てしまう場合も、何度も失敗するのも、なにかしら意味があると思えばいいし。
「答え」を出すんじゃなくて、答えに至るまでの「数式」を考えるみたい。
「なるようになって、これですわ」っていいんじゃないですか?
とは言ったものの、この話の脱線ぶりはどう収集したらいいのだ。
まぁ今日は「まとまらない話を書く」と最初から決まってたんだな。