熟考せよ

ワダサン

昨日の日記を書いてから、ふと思ったんだけど。
「よろしいでしょうか?」が世の中に蔓延する理由。
もちろん「使う側」が「浅はか」だとも思うけど。
「聞く側」も寛容に受け流し過ぎなのではないか?という。
つまり「いいですか?ダメですか?」と聞かれているというのに、考え無しに「はい」で済ませてないか?ということ。
それでも、やっぱり「よろしいでしょうか?」と聞かれたらそうなるのかなぁ?
よく、本屋で文庫本を買うと「カバーお付けしますか?」って聞かれるけど、その時は
「う〜ん・・・じゃあ付けてください」の「う〜ん」があるもんな。
これが「カバーお付けしてよろしいでしょうか?」だったら即答で「はい」って言っちゃうか。
いや、それでもだよ?やっぱり「いいですか?」って意味合いの質問はこちらに選択の余地を与えているんだから考えるべきだな。
テレビで「明日も見てくれるかな?」って司会者に聞かれて。
やや間があってバラバラと「明日はちょっと時間の都合が・・・」とか「ホントは見たいんだけど・・・」とか。
100人とかお客さんがいるわけだから、当然そういうことも起こるわけですね。
「見てくれるかな?」についてちゃんと考えれば。
いや、ちゃんと考えないとしてもそんな簡単に即答はできないと思う。
少し考えて、それこそスケジュール帳を確認して「いいとも!」でしょう。
非常に歯切れの悪いエンディングではありますが、タモさんがみんなの返事が出揃うまでマイクを客席に突き出して固まってる姿を想像するとオカシイなぁ。
で、まぁそういう時の為の「とりあえず」な即答法に「たぶん」とか「おそらく」って意味合いの曖昧な返事があるわけなんで。
「いいかも!」って言っとくのもいいかも。