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bousisensei2008-03-05


ものすごく久しぶりに「ノート」というものを買った。
「帳面」の、あの「ノート」ね。
最近では、このブログを含め、企画書みたいな物を作るのにも、その原案を考えるメモを貯めるのにもパソコンを使ってきた。
「他人に見てもらう」っていう最終的な目的を考えれば、字がキレイで読みやすい事がとても大切で、おそらく俺が「手書き」からワープロにシフトした一番の理由はそこにあったと思う。
キレイで読みやすい書類が楽に作れるって。
たしか、最初は「清書」に使っていただけだったんじゃないかな。別の紙に書いた物を「打ち込む」っていう。モチロン、というか最近はいきなりパソコン入力してますけど。
ただ、やっぱり「清書」という考え方の名残があるのか、どんな文章でもちゃんと見直すようにはしています。というか習慣付いてる。
それで思ったんだけど、小さい頃からパソコンやワープロがあった人ってのは、これが無いんじゃないか?
もちろん、子どもの頃最初にパソコンに打ち込んだのは「たわいもない」文章だったり、メールだったり。
でも、それが「かたち」になるのは大人が仕事でやり取りをしているフォーマットや「見た目」と同じじゃないか。
「下書き・メモ書き」レベルの段階の物と「清書」された物の区別が無くなってしまわないか。
だから、大人になっても「子どもの頃の延長」みたいな文章そのままなのではないだろうか。思いついた事をそのまま羅列したような未消化なものであってもウエブで公開したり、メール送信をクリックしていたり。
その辺が俺ぐらいの世代だと「人に見せるもの」は「キチンと清書する」ってワンクッションが当然な訳で。
「清書」ってのは、単に文字をキレイに書き写したり誤字脱字を直すだけじゃなくて、自分の考えを見直して整理するのに重要な「ひと手間」なんじゃないだろうか。
漢字と仮名の使い方ひとつでも、伝わるニュアンスが変わって来る場合もあって、そういったチョイスもじっくりやった上で「人に見せるもの」に仕上がって行くんだと思う。
「人に見せるもの」というのは「自分が伝えたいこと」なわけで。
それで、さらに思ったんだけど、インスピレーションみたいな「その場でのひらめき」がキチンと生きてくる状態って、もともとの「叩き台」であるベーシックな自分の考え方が整理されていて、それが周りの人にもわかっている状態だと思う。
「あの人、突然何言い出したんだ?」じゃダメな訳で。
それが単なる「思いつき」のような未消化なものであっても、整理していく方向性を周りのみんなが共有していれば「キチンと清書されたもの」になるのではないか。
つまり「人に見せるもの」
そんな訳で今回も、初めはパソコンでやりかけたんだけど「こりゃイカン」と久しぶりに「ノートに手書き」を復活させる事にした。
それは「なんでか」って言うと、俺が思いついた事が最終的に伝えたい所に届くまでの距離がものすごく長いので。
その長い距離の途中にもたくさんの伝えなければいけない事もあるから、どんどん整理して先ず自分の中で理解していかないと、思いは伝わらないのだ。
2冊買った帳面はそれぞれ「製作ノート」と名付けられ、最後は2枚のCDになるのだ。