まだ怒ってる

ヤメろ!

「山菜そば」の話しなんだけど、正確に言うと「まだ」ではないな。
なんとも言いようがない「怒り」の所在がハッキリしたというか・・・
まぁ、そういうわけで、こんなことばかり書くのもなんだけど書く。
「あ〜その手の話しは」という人はトバしてください。
案の定、というか「山菜そば撲滅」の話しに「別にいいじゃない」という反応が。
別に「毎度のことながら」人それぞれなんで、そういう人もいるだろうし。
俺みたいな人もいる。
ただ、同業者的な友人に「そんなこと深く考えなくても」みたいな言い方をされると、な〜んかカチンとくる。
「山菜そばが大好き」という人に猛反発をくらうのならいいんだけど、特に思い入れや考えがあるわけでもないく、これまで「山菜そば」に接してきた人に「別にいいじゃん」と言われると・・・「いや、いっぺん考えてみたらいいじゃない」と言いたい。
元々、山菜って「なんだったのか?」というと。
食料が少なかった時代や、冬の間の貴重な保存食として食べられていたものだと思う。
山に自生してる山菜をわざわざ取りに行って、面倒な「灰汁抜き」などの下ごしらえをして「そうまでして」食べてたもんだと思う。
「だって、それしか喰うもんないんだもん」みたいな。
でも、食料が豊富になって、年中いろんな食材が手に入るようになって。別に今の時代「山菜」なんてわざわざ食べなくたって済むのだ。
元々の「山菜を食べる意味」を考えたら。
それでも季節ごとの「旬」を手間をかけて食するという習慣は続いて、それはある意味「贅沢」になったわけで。
俺も「山菜」とはちょっと違うけど、掘りたての「たけのこ」を何度かもらった事があって、面倒な下茹でや灰汁抜きをして食べたんだけど、それはやっぱり「手間に見合った」美味しくて「気持ちが贅沢になる味わい」だった。
で、ここで問題なのは「手間がかかる」「贅沢品」には必ず「お手軽な廉価品」というのが、あとから付いて出回るということ。
ビン詰めやパックで売られている中国産などの山菜やたけのこの「水煮」がそれなんだけど。
問題は、別に「中国産」という部分ではないと思うのだ。
「なんでそんなもん喰う必要があるの?」という点なのだ。
たとえば、俺は家で「八宝菜」のような炒め物を作る時、たけのこは好きだし「食感」としても実に欲しい所ではあるけど「水煮」は絶対買わない。「そうまでして入れるもんではない」と思うから。
その代わり、春に大きなたけのこをもらった時は年に一度だけ「たけのこ入り」の八宝菜を食べる。
それでいいんじゃないの?
俺は「化学調味料」について「絶対反対」ではない。特にラーメンなんかだと「ちょっとぐらい入ってた方が美味しいじゃん」と思う。ようは料理を作る側が「化調不使用」にこだわってるか「美味しいものを作ろう」としてるかなんだけど。
もちろん「化調不使用」で美味ければ文句はないんだけど、味はイマイチなくせに「化調不使用」だから「ありがたがれ」という考え方はオカシイと思うのだ。
という「化学調味料、別にいいじゃん」という考えなんだけど、本来キチンと鰹や昆布で出汁を取るべき料理を「めんどくさいから」という理由で「粉末出汁の元」みたいな化学調味料を使うのは反対。
あくまで「それを使った方が美味しいから」という理由以外で使うことは良くないと思うのだ。
これも俺の「たとえば」なんだけど、お好み焼きを作る時、どうせソースをかけてジャンクになるってのもあるけど「ほんだし」を生地にいっぱい入れる。キチンと取った出汁を加えるとどうしても水っぽくなって、せっかく「山芋」をたっぷり入れても生地がべシャッとなっちゃう。でも「ほんだし」バージョンで山芋と卵とキャベツから出る水分だけで焼くと、生地がフワッとお店で食べるみたいに出来るんだよなー
というわけで「ほんだし」は常備してるけど、それで「味噌汁」を作ったりはしない。それはダメだと思う。
つまりは同じ事なのだ。
「八宝菜にはたけのこが入ってるもの」という思い込み。「でも、めんどくさいから」という理由で水煮を使う。
「別にそうまでしてたけのこ入れる必要ないか」という当たり前のことに気付かないぐらい「思い込み」が勝ってるということだよね?
「山菜そば」の「ありかた」もまったく同じじゃないか?
こういう「本来の意味」が忘れられて「めんどうだから」と「手軽にポン!」で済まされることって、別に食材に限った事ではないと思うのだ。
たとえば音楽のアレンジなんかでも、ラテン調の曲で「ここには普通コンガが入るよね」みたいな。でも、メンバーに叩ける人がいないから、打ち込みで代用するみたいな。
パッと聴いたら「コンガの入ったラテン調の曲」にはなってるんだけど、本来コンガが曲にもたらす「グルーヴ感」みたいな影響力はまったくない、みたいな。
だったら、元々いるメンバーのドラムで、そこに必要とされるグルーヴのリズムパターンを考えた方が、コンガという「ラテンのアイテム」を加えるよりも本質に近づけると思うのだ。
「山菜そば」の山菜って、実に本質から外れた「お手軽なアイテム」だと思う。
同業者に「そんなこと深く考えなくても」と言われてカチンとくるのはそういうことなのだ。
「山菜そば」を「どうよ?」と思わない人はグルーヴしないコンガを平気な人と同じだと思う。