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今日のオススメは啓発


日頃、楽器を持って演奏することも含めて、自分がやっている事すべてをひと括りにして言うなれば、というか「こうでありたい・こうあるべきだ」と思うことのキーワードに「啓発」というのがある。
「啓発」辞書で調べてみると
[名](スル)《「論語」述而の「憤せざれば啓せず、俳(ひ)せざれば発せず」から》人が気づかずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くこと。「彼の意見には―された」「自己―」
堅苦しいハナシにも聞えるけど、ようするに「発見する喜び」の機会を作れる人間になりたい、ということだ。
考えてみて欲しい、たとえばコンサートに行って「良かった」と思えるというのはどういうことか。
結局は自分の中にある「良いと思う感情」をくすぐられた、ということではないか。思いもよらない場面で「良かった」と思ったとしたら「良いコンサートに出会った」というよりも、むしろ「自分が今まで気付かなかった感情を発見した」ということではないだろうか。
「いや〜俺って意外なところで感激するもんだな」
ということを楽しんでいるんじゃないだろうか。コンサートは単なる「キッカケ」に過ぎないと思う。
もちろんコンサート自体が良いものであるに越した事はないけど、それがどれだけ相対的に見て「良いもの」であっても人の感じ方は様々だ。それは「良いと思う感情」が人によって違うという「当たり前」の事が原因なんだけど「良くなかった」「悪かった」といわれる事を極端に否定する人が中にはいる。
じゃあ、そういった人はさぞかし「良いもの」を作り出すのだろうと思うのだが、得てして「良くも悪くもない」場合が多い、つまり「なんの感情もくすぐられない」ような。なにも「啓発」されないような。
そんな魅力のない人間にはなりたくないよな。
逆に言ってしまえば「魅力のある人」というのはどういう人か、という事なのだがズバリ「何かを気付かせてくれる人」ということになる。言葉かもしれないし態度からかもしれないけど「自分の中に眠っていた感情をくすぐってくれる人」というのが自分にとって最も魅力のある人なんだと思う。
「力を引き出してくれる人」まで贅沢を言ってはいけない、それは自分でやる。

自己啓発」というと、なにやら胡散臭い言葉に思えてくるけど、俺自身がそうであるように機会を求めている人は少なくないと思う。そして勘違いしてしまいやすい事は「自己啓発とは自分を見つめる事」だと思っている人が意外に多い。
自己啓発」とは、どちらかといえば「人のフリ見て」とか「反面教師」の類だと思っている。良い手本でも悪い手本でも構わないのだ、それをみて自分が「どう感じるか」だから。

そうやって考えると「魅力のある人」って簡単になれそうな気がするよね。
何かを発信するのなら「魅力」は必須ですよ。
大切なのは「啓発」を発信する事、そのためには常に自分自身も「啓発されるアンテナを張る事」だと思う