bousisensei2006-02-02

昼間に珍しく、と言うか久しぶりに90キロ未満さんから掲示板に書き込みがあって、それにコメントした後に読みかえして「ハタ!」と思った。
自分で書いた事なのに「なるほど」と思ってしまった。俺は分裂障か?

というのも、以前「虎の穴」でも吉野さんがよく言っていた「プレイヤーとしての引き出し」ってのと、照喜名君がブログに書いていた「目的も無く練習をする人」の二つの話しを関連付ける為の考え方の土台になるのでは無いか?と思ったから。

例えば「牛スジ肉」の調理方のバリエーションを増やした事で「引き出しが増えた」と言えるのだろうか?「牛スジ肉」という素材をどんな風にでも料理出来るというのは確かに凄い事だし(もちろん出来る事が先ず必要であるという前提で話しは進めます)普通はそういった人を「引き出しが多い」と言ってしまいがちだがそれは勘違いではないか。
何かを作ろうとした時に、そこにレシピとは違う「牛スジ肉」を持って来る事が出来て始めて「引き出しになった」と言えるのではないか?「牛スジ肉をモノにした」と言えるのはそういう事じゃないか?まず目的ありき。

つまり「あらゆる食材を思い通りに調理できる」というのは、音楽に当てはめるとしたら「譜面に書かれたスラーやスタッカート、強弱記号を完璧にこなせる」に過ぎないのでは無いだろうか。
どれだけ「練習だけ」をしたところで「引き出し」は増えないという事だ。誰かが作ったレシピ通りには完璧にできたとしてもだ。
指示記号が何も書かれていない譜面でも、作者の意図を汲み取ったり、自分なりのピッタリ当てはまる表現が出来て始めて「練習したことがモノになった」「引き出しが増えた」という事じゃないか。

二人のほとんどテクニックに差が無いバイオリニストがオケのオーディションを受けて、一人しか受からなかった時、おそらく落ちた人はがむしゃらに練習するだろうけど、多分そういう事じゃないんだと思う。照喜名君が言うところの「目的も無く〜」ってのはこういう人にもあてはまるのではないか。
技術の先にあるものが「引き出し」であり「音楽」なんじゃないか。

たいていの人は、どれだけ飾り包丁が丁寧にほどこされて、きれいに盛り付けられていてもたいして美味くない料理より、少々見てくれは悪くてもすごく美味い料理の方が良いというだろう。調理より料理を評価しているからだと思う。
ところが音楽の場合はどうだろう?「技術至上主義」になりがちではないか。
それは音楽の学校と料理の学校の数を比べてもわかる気がするし、プロの料理人が全て料理学校を出ている訳でもない事でよくわかるのではないか。「調理は学べても料理は学べない」ということがみんなわかっているという事じゃないか?「別に学校行く必要なし」「経験に勝るものなし」と。
もちろん音楽において楽器の技術は当然それ無しでは話にならないけど、「もっともっと」って勘違いを利用した学校は少なくないと思う。「技術は学べても音楽は学べない」様な。ただそれに気付かない人が多いから学校出てから「あれ?俺何も出来ないじゃん!」ってなるんだな。「○○料理学校首席卒!だけど料理は不美味い!」みたいな。

そうやって考えると「虎の穴」は実に「音楽」の学校だったなぁ、中途半端に終わってしまったのがもったいない。敗因は「楽器の操作もままならない人」を対象にしていた事だと思うんだな、結局楽器教える時間の方が(それも基礎)多かったもんな。
ああいったワークショップみたいなこころみは、是非とも復活させた方が良いのではないか?もっと門戸をひろげてさ、金ももっと取ってさ。ねぇ吉野さん。

はっ!全然関係ない話になってる!