考えてみれば

タバコぐらいは買いに出る


昨日の日記に「意味・無意味」みたいな事を書いたけど、よーく考えてみると「日々の生活」における行動に全て意味を見出す必要はあるのだろうか。
さらに逆を言ってしまえば、意味の無い事ってホントにあるのだろうか。
と、言うのも、なんとなく人から頼まれた事(仕事とかね)をやっていると「意味がある」様な気がしてしまうけど、実は全然それは違う訳で。(ここで文章の流れに「ん?」と思った人も最後まで読んでね)
依頼された事をガシガシ片付ける日々を送っていると、忙しい中にも「変な充実感」があって、自分のやってる事に安易に「価値」みたいなモノを見つけて満足してしまっていないだろうか。
まぁ、もちろん「わかりやすい対価」としてお金がもらえたりする訳ですけど。
あまり良く知らないんだけど、街中でよく見かける「ティッシュ配り」。あれをやってる人は、どこに満足感、というか気持ちを持っていってるんでしょうね?
「折り込まれた宣伝チラシの効果があった時」
これはティッシュを配る事を依頼した側の一番の目的だとは思うのですが(ようするにチラシ入りティッシュを配るという「意味」)、実際配ってる人には実感できることでは無いでしょう。
「もらったティッシュでハナをかんでもらった時」
これは受け取った側が「ティッシュ」の価値を最大限に利用して「あぁ、もらっといて良かった」と思う時だろうけど(ようするに「ただのチラシ」ではなくて、ティッシュであるという「意味」)、これも配ってる人が立ち会える事もないし、配ってる人が直接感謝される事でも無いでしょう。(せいぜい「街中でティッシュを配る事を考えた人って偉いな」ぐらいでしょう)
となると、やっぱり「仕事を終えて、お金をもらった時」って事になるのかなぁ〜
さっき「わかりやすい対価」って書いた「お金」だけど、結局「拘束時間」や「労力」に対して払われているだけであって、「宣伝チラシ入りティッシュ」の価値とはあまり関係無いよな。もちろん「ティッシュ配り」って仕事にホコリを持ってる人もそうはいないと思うけど。
この構図は、なにも「ティッシュ配り」に限った話では無い訳でさ。
パッと見「意味ある・価値ある」ような事にも当てはまる場合があるんじゃない?
最初に「意味の無い事ってホントにあるのだろうか」って書いたけど、やっぱり意味の無いことなんてこの世には無いと思う。ただ「自分にとって」と「相手にとって」ってナカナカ両立できないふたつの「意味」があって、それをゴッチャにしてしまいがちなのがマズイんじゃないか。
つまりは「何も生み出していないのに満足してしまう日がある」ぐらいなら「何も生み出さない事に満足する日」があった方が良いのではないか。
そうやって考えると、むしろ昨日のような一日の方が自分にとっては「意味のある一日」だったのかもしれない。
確信は持てないので、もう一日サボってみた。